私と肉体のレッスン

2.丁寧に進もう。

免疫抑制剤を最後に使ってからもうすぐ20日目を迎えます。
特に目立った体調の変化はなく、まだ、薬の効力が身体に残っているのかもしれません。まだまだ始まったばかりです。

セカンドピニオンの診療後、治療から2週間が経ち、今日は、サードオピニオン先のクリニックへ話を聞きに行ってきました。

自分の体を見直すことを意識し始めたことから、セカンドオピニオン先のクリニックを紹介してもらう展開へと進み、そこで心の力を思い出すことを放棄していたと気づくきっかけになったのは、このセカンドオピニオン先のM先生でした。
M先生のおかげで、心の力を思い出すことを選ぼう。「真に見たい」と意欲が湧きたち「私が病気を作った」というアイデアが閉ざしていた扉を勢いよく開いたのでした。

前回のエッセイでは、その高揚感を感じてもらえる内容だったと思いますが、心を思い出すきっかけとして、私には必要な衝撃でした。
その高揚感を感じつつも、「この高揚感のまま進むのは、ちょっと怖い」という思いもあり、「真に見る」ために進むにはどうしたらいいのか、丁寧に進みたいと思いました。

この「怖い」は、真実へ向かう怖さかもしれないし、自我で突き進むことを警戒しているサインかもしれない。どちらにしても、私が平穏ではないことは確かです。

神聖なインスピレーションは、ただ静かに広がるような麗しさがあるのに比べて、自我の閃きというのは、とても極端です。いわゆる、直感的な閃きや衝動的な勢いで押し流したくなるのは、、自分が獲得したものを真実としたい、自分が信じたものを実在としたいという、自我の特別性からくるものです。

そう言った思考を選んでおかしなことになる、という経験を、私自身何度もしてきていますので、ここは、慎重に聖霊を思い出しその導きで進みたいと思いました。

であるなら、どうすれば自分が穏やかに安心して進められるのかという部分で見直すと、M先生の治療法についても、鵜呑みにせず他の考え方も聞いてみたくなりました。
サードオピニオン先のクリニックのことは、M先生のクリニックと一緒に教えてもらっていました。M先生に話を聞いた時点では、別にもう話を聞かなくてもいいかな。と思うこともありましたし、何日かその必要が「ある/ない」を迷っていました。

考えることが面倒だとか、選択肢が増えるのは逆に選べなくなりそうとか、思っているのと違ったら嫌だし、など自分の「楽」を優先させる言い訳が頭の中にちらつきましたが、聞いてみるだけでもいい、それから判断しても遅くははないと向かうことにしました。

ここでの「楽」というのは、問題と向き合うことから逃避して、安直な判断で手を打つとか、手抜きをするという意味です。その時その時の、短期的な視点で「自分に親切にする」という行為は、長期的に見て「苦しみが長引く」ということも言えますよね。そうやって、「やらなきゃ」ってわかっていても、自分に誤魔化したり言い訳をして長引かせてしまうことは、日常の中でもいろいろありますよね。夏休みの宿題を8月31日にやる感じ。

では、その時に「困難な方を選ぶ」ことになりますが、この世の行動的な決断で「困難」ということではなく、問題と向き合うことは、自分に隠していた「偽り」や「誤魔化し」を直視していく作業になります。これは、見たくないものを見ていく作業ですから、それなりに「困難」だと思います。

私の夫は、最近ピアノを習いはじめ、毎日練習を欠かさずしています。そしてコツコツ、コツコツ練習して、素敵な曲を滑らかに演奏できるようになって、レパートリーが増えていくのですが、この毎日少しでもピアノの前に座って練習するという、習慣づけというのは、それなりに意欲を試されるような「困難」な選択だと思うのです。調子の悪い時、指使いをマスターするために何度も指の練習曲を弾くとか、気分が乗らない、集中できないなど、楽しいけれど楽しいだけではありません。そういった自分と向き合いながら続けている姿を見せてくれています。それに、練習しなければずっと弾けないままなのです。

恥ずかしながら、つい先日まで、疑うことなく「医療依存」していましたから、「困難な方を選ぼう」とせず何もしないで、何処かから救いを与えられるのを待っていたという感じだったのかもしれません。それはまるで、どこからか白馬の王子様が現れると信じているお姫様のように。
ピアノを買ったら、ピアニストのように弾けると勘違いしているかのように!

どこが始まりの期間はわかりませんが、聖霊を思い出して心を選び直して、知覚も変わってきました。そうして、赦しのための材料(教材?)が一つずつ揃ってきています。

T7-IV-3:3~5
聖霊は、自我が「学んだ」ことの反対を教えるために、自我が作り出したものを使うことをあなたに教える。学んだことの種類も、その学びに用いられた特定の能力も、同様に問題にならない。あなたはただ学ぶ努力をすればよいだけである。

神の救済プロジェクトを進む中で、自分の選択が自我によるものの場合の時もあるかもしれません。でも、また心を選び直すことで、聖霊は正しい道へと導いてくれる。たとえ、私が失敗しても、聖霊は、失敗しないのだから、一つ一つを丁寧に進めていこう。

T1-III-3~4
私は、私自身の贖罪のために奇跡を必要としてはいないが、あなたが一時的に失敗した場合に備えて最終地点に控えているからである。贖罪における私の役割は、あなたが他の方法では訂正できないような一切の誤りを無効にすることである。