ある学習仲間Aさんの話から_。
「とあるACIM学習サイトに登録したら、Xさんという方の状況が記されていて、その方に向けて”一緒に祈ってください”といういう内容のメールが届いたのを読んで、一瞬動揺したんです。ACIMを学んでいくことにゆらぎを感じました。」
「そのメールの内容から、長年ACIMを学んで、人にも教えられるくらいになっても、人から祈られることになるなんて・・。」
それは、ACIMを学んでいれば、この世界での幸せが手に入り安心して、安全に暮らせるはずなのに、人から祈られる(つまり、人から施しを受けることになるとは・・)と、ショックを感じたそうです。
そして、Aさんは続けて、「それで、私は、この世界でまだまだ幸せになろうとしてた、この世界に幸せがあると思っている自分に気づいたんです。」とおっしゃられました。
この話の中で、「祈ること」「幸せ」と見つめ直したくなるワードが出てきました。
上記の「一緒に祈ってください」というメールの内容が、どのような意図で送信されたのかは、私にはわかりませんが、コースの学習者にとって他者を祈る時にはいくつか確認しておいた方が良いことがあると思います。
それはまず、祈りによって今の状況から(自分の思う)良い方向へと改善しなくてはいけないという認識を持って祈ることは、破壊のための赦しに当てはまると言うことです。
なぜなら、助けを求めている人がいることを前提としているということは、そこに神の平安以外のものが実在するという認識を持っていると言うことになりますし、本来、神の平安以外は実在しませんので、それ以外のことを信じている自分の認識を訂正していくことが真の赦しになります。
ですので、もし「祈り」をするならば、まずはXさんに見ている状況を実在だと信じている自分の信念(選んでいる思考体系)を自覚し向き合ってからになると思います。
そうすると、祈りを送る「相手」よりも、自分自身の癒し/赦しへと意識は向かいます。
これは決して、他者の幸せを願わなくてもよいとか、願ってはいけない、ということを言っているのではありません。それとこれとは別問題です。
なぜなら、この世界が幻想だと言われても、幻想だとはまだまだ思えないで生きている私たちですので、相手がいて自分がいることの方がとても自然です。そして、自分の幸せや、他者の幸せについて、できれば幸せでいてほしいし、何か悩みがあるなら解決してほしいと思います。
ある意味、それはとても自然なことですし、思いやりがあり、親切なことだと思います。
ですが、ACIMを学び実践している学習者の方なら、そのことは、真実とは全く無関係だという識別を覚えておく必要があるのではないかと思うのです。
なぜなら、そうでなければ奇跡/赦しを行えないからです。
ACIMの識別法は、「実在するもの/実在しないもの」です。
そして、「実在しないもの」のなかに、私たちが考える「善と悪」があります。
と言うことは、私たちがこの世界の善悪としている中に、実在するものはないと言うことですよね。
ですから、私たちの考える「善悪」の考えと真実は相容れないものなので、そこに意味を持ってしまうとレベルの混同を見てしまうと思います。
そして、実在の識別ができないまま、見ている世界に意味を与え、実在しているように信じていると言うことは、決断の主体である私が自我の思考体系を選んでいると言うことになります。
今回で言うなら、不運な状況に見舞われたXさんという人がいて、その人に対して祈りをそのまま行うなら、起こっている状況に対して何らかの手立てを取らなくてはいけないという考えのまま、この幻想世界に注力していることになりますし、さらに、幻想を違う幻想に変更することを聖霊に祈願することになるのだとしたら、それは神の意志(神の平安だけがある)を否定していることにもなります。
このような状態で祈っても、赦しを心の決断の主体に戻らずに行ってしまうことになりますし、それでは真の赦しではなく、破壊のための赦しになってしまいます。
上記でAさんが「この世界で幸せになろうとしていた」と気付かれました。
それは、この世界のどこにもACIMで学んでいる答えはなく、私たちにとってACIMの学びで得る幸せ(一元論の幸福)はこの世にはないということを思い出されたのだと思います。
他者を祈る時だけでなく、赦しを生きるということは、知覚するものを「実在するもの/実在しないもの」の識別法を忘れずに過ごしていくことが大切だと感じています。
この世界に見ていることを、善行かどうかの判断の行動のためではなく、その解釈は神の意志と共にあるものだろうかと問うのために使っていくことです。
これは、あくまでもACIMを学び実践することをベースにした話です。
困った人に手を差し伸べること、大切な人の幸せを願うことは普通のことだと思いますし、私も、そのように過ごしています。
ただ、そのことと真理とは全く無関係であり、真理以外のことで揺れ動く時はいつでも、私たちは自我を選んでいるということを忘れないようにしたいと思います。
ACIMを学び実践しない生き方なら、こんなことは考えなくてもいいともいますが、赦しを生きるのであれば、何を実在としているのかに気づき、神の平安以外のものを実在としている間違った知覚を癒すための手段を導きに従った方法で実践していきたいと思ったのでした。
共に祈る者たちがまずはじめに何が神の意志であるかを尋ねるのでなければ、そうしたつながり合いでさえ充分ではない。この原因からしか、すべての具体的なものごとを満足させる答えが生じることはあり得ない。(S-1.IV.3:1~2)