こんにちは。
今回のエッセイはとてもプライベートな内容になっています。
いち学習者である私の赦しのテーマ「病気」について綴っています。
ご興味がない方は、そのままスルーしてください。
お時間のゆるす方は、どうぞお付き合いくださいませ。
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私がクローン病の患者であるということは、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、初耳だという方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。
私は、21年前に「クローン病」と告げられました。
そして2度目の手術は、使い古した自我を取り去る儀式のように感じながら挑みました。
それから、免疫抑制剤を処方されています。
それは5年前のことです。
その時、その薬を処方されることに抵抗があり、往生際悪く、数ヶ月間受け入れずに過ごしていました。
その間、他の方法はないかと探してもいたのですが、それ以外の選択肢に巡り合うことはできず、最終的には、「僕の知っている治療法の中で、あなたが日常を健やかに過ごせるための最善の選択はこれしかない」という主治医の熱い思いを受け入れました。
そうやって「薬」に対して抱いた抵抗を赦したと思っていました。
でも、赦したのではなく、主治医の熱い思いを受け入れただけだったのですよね。
今思えば。
それから現在に至るまで「これは本当に必要なのかしら」という疑問が頭をよぎっては、主治医の熱い思いを思い出し、その疑問はまたどこかに仕舞われていました。
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去年の秋頃、遊び半分で、「海外旅行で行きたい国」をピックアップしていたら、その選択基準が食事だったということに気づきました。
自分の体が受け付けられる食事か?
安心して食べることができる国か?
調理法は?衛生面は?などなど
観光地の魅力や、風土、文化、歴史ではなく「飢え死にしないか、どうか」だなんて!
そして、それが、私の場所というか行動を決める基本条件の一つだったと気づきました。
それほどに、私の頭の中が「食」に支配されていたというのも驚きでした。
「食」のことをそんなにも気にしているのなら、と。
「食」を見直すことにしました。
夫が好きな「スパイスカレー」がいいきっかけとなり、料理教室に通うことにしました。
というのも、やはり幾多の種類のスパイスは、それぞれに作用もありますから、自分一人では使いこなすまでの知識もありません。
そこで選んだのは、ただスパイスカレー・インド料理を教えている教室ではなく「アーユルヴェーダ」に基づく知識のある先生の教室です。
体調によって、スパイスをうまく使って、少しでも体の中に入ってしまった異物によるダメージを緩和できたら。という程度の目的をもっていました。
その知識を持っておられる先生を求めてネットを検索すると、都合よく京都でレッスンが受けられるということがわかり、それはラッキーなことでした。
アーユルヴェーダは、日本では、アロママッサージのような位置付けで認知されているようですが5000年前にインドで発祥した医療であり養生法です。
インドの病院ではアーユルヴェーダの外来もあるそうです。
西洋医学も東洋医学もどちらも私たちの肉体に対して必要な医療だと思いますし、私自身は、医療については患者という立場で好奇心を持っていますが、さほど詳しくはありませんので、気になる方はネットなどで調べて見てください。
話を戻して、
先日、そこで自分がクローン病であることを話すタイミングがあって、その先生の知人が私と同じ病気の方で、完治したと聞きました。
私は、その話を話半分で聞いていました。
なぜなら、クローン病は、原因がわからず難病として特定されているから
完治するなんてことはどうも怪しい。たまたま、その人の病状が軽かっただけではないかしら。でも、私は違う。
というフィルターを持っていたからです。
実は、漢方も何度か試したことががあるのですが、なんだかよくわからないままフェードアウトしていたのです。
ということで、半信半疑とはいえ、東洋医学を取り入れた治療には以前から興味があったので、その病院を紹介してもらいました。
その病院のHPを見て、医院長であるその先生の論文コラムを読んでいると、私が疑問に感じていたことが解決するかもしれない。という気持ちが湧いてきました。でも、その反面、この治療法は、もう手遅れかもしれない。とも。
新しいことに足を踏み入れるのは、緊張するのですが、とりあえずその病院に電話をかけると、そのまま診察へと話が進んで行きました。
その病院は自由診療で、電話で診察してもらえるのです。
私の病歴をざっと話し、現在から過去へと話を遡りながら、直近の血液検査の数値なども伝え、不可解な点を掘り下げていきました。
そこで、浮上してきた新たな説が
「私は、クローン病ではないかもしれない。」というものでした。
(これは先生が仰ったのではないので、断定的なことではありませんが、会話の流れから、私にはそのように受け取れました。)
そんな選択肢があるんだということに大笑いしてしまいました。
というのも、もし、私がクローン病でないのなら、この21年間はなんだったのか?と、パッと目の前に光が差したからです。
この21年間の私が過ごしてきた日常全てに聖霊の真実の光を照らされたら・・。大部分_。いいえ。すべて消え去るでしょうね。もう、これは笑うしかありません。笑
病気でない人生はどんなだったのか?
と思いを馳せた時、頭の中にまずある人が浮かび、その後、今までの違和感を感じる人やシーンが、自分でも確認できないような速さで、泡のように浮かんでは消えて行きました。
それらは全て、私が聖霊を選ばなかった時の人生をただ見ていただけ。そんな風に思えました。
そんな夢を見ていただけ。と、フフッ。と笑ってしまうような感じです。
聖霊を選ぶ訓練を続けてきて15年目になり、聖霊とともに生きていく赦しの生き方にコミットしています。そうして準備が整ったのか、このような新たな展開を迎えました。
奇跡においてその目的は、病気を「治すため」ではなく、「私はいない」「世界はない」「ないと知る」ためのものですよね。これは、病気に限らず、他のどのことにおいても同じです。奇跡に、難しさの序列はありませんし、例外もありません。
私は、これから新たなステージを挑戦します。
どんな人生があったとか、病気が治るとか、現象においては、どちらでもいいのですが、それらが「なかった」「起こっていなかった」という確信をもって知覚するとき、どのような景色を見ることができるのでしょう。
私は、自分の肉体をどのように見ることが出来るのでしょうか。
そもそも、病気は私が作ったものなので、どのように「取り消し」がなされるのかと言うところも興味深いです。
今までの赦しの経験と同じく、これから体験することも、「私は肉体ではありません。」という真実を確信し「何も起こっていなかった」という贖罪へのプロセスなわけですが、
「病気」も、私とこの肉体との特別な関係のひとつの投影でしたし、人間「廣田さな」のアイデンティティーでもあったので、奇跡に大きいも小さいもないと言われても、私にとっては、少し大きく思えてしまいます。
免疫抑制剤の「抑制」が、どんなものなのかは赦しをしていなくても、おおよその作用は分かりますよね。
「抑制」ですから、抑え込んでいるわけで、無くしているわけではありません。
感情や自分の考えを抑え込めば、だんだんとフラストレーションが積み重なり爆発するとの同じように、肉体に免疫を抑え込んできた年数によって、その抑制をやめた時に、その押さえ込まれていたものはどのように現れてくるのか、ちょっとドキドキしています。
クローン病という宣告が、私の「コースを学ぶきっかけ」になった理由ではありませんが、私自身の生き方に大きな影響を与えたことは間違いありません。もう新しいことは起こらないと思っていたところに、「そうきたか!」という面白さを感じています。
コースは常に「原因」についての取り組みですので、やはり妥協がないですね。
あぁ、なんて愉快なのでしょう!
今後、どのようなことが、私の思考と身体に起こるのかは、これからのことですが、そこでの私ができる唯一の対処法は、今までと変わらずただ一つ。
「奇跡」です。
そこに真実はない。と聖霊を選ぶことを忘れずに過ごして行きたいと思います。
今後、また何かシェアできることがあれば綴っていく予定です。
その時は、またお付き合い頂けますと嬉しいです。
[…] 前回のエッセイでは、その高揚感を感じてもらえる内容だったと思いますが、心を思い出すきっかけとして、私には必要な衝撃でした。その高揚感を感じつつも、「この高揚感のまま進むのは、ちょっと怖い」という思いもあり、「真に見る」ために進むにはどうしたらいいのか、丁寧に進みたいと思いました。 […]