明け方の夢

投影することはあっても、投影されることはない。

何年も前の話ですが「私、よく、投影先にされちゃうの。」と言う方がいました。

コースの理論、概念を理解し学んでいるなら、ここは同意したいところを立ち止まり、疑問を感じられると思います。

「投影される」という考え方で赦しはできるのかしら?と。
私も同じように疑問を感じました。

その後も話を聞いていると「そういう人は、自分の罪悪感を私に映しているだけだし___。」と、お話は続いていきます。私は、ますます、「?」が浮かんでくるのでした。

「ゆるし」って、そう言うものではないと思うけど・・・。
うむむむー。なんていうか、根本的に違うくないですか?と。
その時は、うまく整理ができず一人悶々したのを覚えています。

この方が話していた「ゆるし」は、『私が、あなたのことをゆるしてあげますよ。あなたの抱えてきたものを受け入れて「そうだったのね」とゆるしてあげましょう。』という私が「優」で、あなたが「劣」という関係で成り立っている「破壊のための赦し」ではないかと思うのです。

そもそも、「外側に見ているのは幻想である」と学んでいるのに、外から投影されることが前提になっているのは、外側が「ある」ということになってしまいます。

ですから、まず、「これは誰の解釈で見ているのか」ということに立ち止まるのが大切ですよね。そうすると「心(原因)に戻る」たった一つの間違いに気づいていけると思います。コースが教えている「赦し」は、相手との関係性を円滑にするものではなく、心が選んだ間違いを取り消す「救済のための赦し」です。

自分は被害者で、何も間違っていないし、相手の罪悪感に巻き込まれただけ。という思考からの「ゆるし」の場合、攻撃された。傷つけられた。苦しみを抱えている人が居る。ということを信じていることになってしまいます。私たちが見ているのは、「内的状況の外的映像」ですから、「出来事→(肉体が)感じた」ではなく「(心が)感じた→出来事」として知覚しているのです。

知覚というのは、私たちの心が受け入れた解釈の関わりによって意味を持ちますから、この解釈を正しく解釈し直すのですが、それを「頭脳」でするのではなく、この世界を作り出した「心」でおこなっていくのが奇跡です。どのようなエピソードも、「一つの問題」を間違って解釈したことによる映像ですから、 それを聖霊という教師(導き手)によって再解釈に導かれていく、と。(これは、先日のシェアサポート で基礎確認した「救済」でも、少しみなさんと確認しました。)

では、何に対して「感じた間違い」でしょうか?
相手の方が正しかった。ということでしょうか?

これも、よく勘違いされることですが、「自分は間違っていない!」「かわいそうなのは自分なのに!」と、時系列で事のあらましをなぞり正当化したくなる方もいらっしゃいます。(私ですが)
自分の正当性を証明したい思考と葛藤が、ぐるぐる頭の中を駆け巡っている時、辛いですよね。被害者であるはずの自分が、だんだんと追い詰められて、気がつけば自分のことを咎めている、といったこともあると思います。(あります)

「罪」と言うレッテルを、どちらかが受け取らなくてはいけないと思っているうちは、こんな感じです。

でも、赦しは、時系列を超えてなされるので、時系列の領域のことではありません。

被害者でも加害者でもない。「罪」と言うレッテルは、あるように見えても、実在しませんし、「罪」があると、信じているだけなので、それを選び直せる「選択する力」を私たちは持っていることを思い出すこと、聖霊を思い出すことをするのでした。

私たちの本来、何者かということが思い出されれば、外部からの攻撃や、傷つくことはできません。自分が無実なのであれば、その相手も無実です。ですから、どちらかが「罪人」とか、どちらかが「間違っている」といった被害者と加害者はいません。
破壊のための赦しの場合は、赦しっぽいことであって、一つの心は分離したまま時系列からも抜け出せていません。それでは、真の赦しはなされません。

「罪」はどこにもないですよ。ただ、間違っただけですよ。
「間違い」は、心の思考を選び間違ってしまった、選び直しましょう。
それだけをしなさい。と。
コースの中でイエスは何度も何度も言ってくれていますよね。

「ただ一つの間違い」を、それぞれの持ち場で、それぞれにわかりやすい形で、それぞれが神の救済プロジェクトとして行っているわけですから、誰かの罪悪感を引き受けるということもありえません。

となると、この「持ち場」はちょっと・・・。なんて言いたくなるかもしれませんが、奇跡に大きいも小さいも、難しさの序列もありませんから、どの持ち場についていても、やることは同じです。ここは「持ち場」に責任を持って、赦して赦して赦しまくって参りましょう。
私たちが「間違いに気づきやすい」持ち場についていることは、間違いありません。その間違いを訂正するのは聖霊です。そして、聖霊によって、不要なものが取り消されたものを、再解釈します。「私たちは何者か」「神が創造したままの私」「私は、罪人ではない」ということを思い出す時、「持ち場」のプロジェクトは成功に向かいます。「聖霊」がついているのですから!
聖霊は、失敗しないので必ず成功するのです。

何だかじわじわと「誰かのせいにしたい」という思いが追い詰められてきましたね。笑

今回の「私は、投影されちゃう被害者」という一例は、「赦し」という歪曲理解のわかりやすいケースだと思います。と、何年も前のことをふらっと思い出して、自分自身の学習の確認として書いているわけですが、それを見ていたのは「私です」。何年の前のことであり「今」のこととして、これを書いています。

「私は、正しく理解している」とか「相手は、間違っている」「もっとこうしたら・・」とお節介な考えとか、逆に「正しく理解できていない」「何度も繰り返している」「あぁ、また聖霊を選べていない」など、葛藤を感じます。コースを使いながら自我の思考にハマること、あります。あります。

奇跡に例外はありませんので「優/劣」「出来/不出来」ではなく、ただ、神の平安だけを選び直すこと。ただそれだけですから。

コースを学び「心を正しく使うことの再解釈」は、私たちのそれぞれの持ち場で、活かされていきます。それは、特別でもなんでもなく「持ち場についている」ただそれだけなんですよね。その持ち場で「聖霊」を選んでいるかどうか。「コースを学んでいる私」という特別な思いも脇において、ただ互いの神聖さを思い出すこと。それだけですね。

そして、やはり私も、「投影された」とか、「それは私のではなく、あなたの罪悪感だよね」と思うこともあるわけですが、冒頭の話は、自我の思考による「真実の隠蔽」について「向き合いたくない」「間違いに気づきたくない」「心の力を思い出してはダメだ」という思考を投影していたのだと思います。ですから、まずは「私が見ている」「私が判断した」と向き直り、私たちの所属はどこだったかな。と向き合う謙虚さを忘れずに、聖霊と「選択の力」を思い出して過ごしていきたいと思います。

自分の機能{はたらき}が完璧な時と場において全うされることを知っているので、自分の能力を疑わない。 彼らはすでに、今日私たちがつこうとしてる持ち場についている。それによって、私たちは彼らの確信を共有し、それを受け入れることでその確かさを増大させることができる。
(W-pt1-L98- 3:4)