明け方の夢

私たちのすることとは?

こんにちは。
緊急事態宣言が延長されましたね。

自粛生活にもだんだんと慣れてき始めています。

この状況下の中でも、私たちの日常生活を守るために、感染リスクと向き合いながらお仕事してくださっている皆さまには、ほんとうに感謝申し上げます。

得体の知れない自我の投影としてのNew Face「コロナさん」が私たちの生活に登場しました。
世間では「withコロナ時代」とか「Afterコロナ」なんて言葉も生まれているようですね。
(しかし、まぁ、私たちってば次から次へと飽きずに作って、愛着を怠らないですね。笑)

日常が変化したわけですが・・
さて、コース学習者である私たちの視点(観点)から「コロナさん」について、備えたり、取り組むことはあるのでしょうか?
何を変えなくてはいけないのでしょうか?

ACIMという純粋な一元論の学びでは、「この状況」「あの人がやったこと」、といった「この世界」についての見方や、「これからは」といった未来についての考え方についても、認識を変える訓練をしています。

聖霊に心を寄せる時、私たちの外側にも、未来にも(もちろん過去にも)「何も起こっていない」ということを理解することを学んでいます。

だからと言って、「何にも起こっていないから」と安易に安心するのではなく、対処としてこの世界についてのやるべきことはちゃんと守ることが大切です。(今回の件なら、感染予防策・社会的距離など)

コースは「心についての学び」ですから「何も起こっていない」というのも、私たちの「ひとつの心」についてのことです。

ですから、世界に「コロナさん」が登場し、そこで取らなければいけない具体的行動とは何も関係ありません。

ここで、『何も起こっていない』のに『取らなければいけない具体的行動』と書いている文面について矛盾を感じるかも知れませんが、私たちは、肉体を持っている以上、肉体と同一視した状態を信じています。
そこでは、「世界からの影響を受けている」ということを疑うことなく信じています。

この世界に一貫性がありませんから様々に変化することは当然起こりますが、肉体を持って過ごしているのなら、その変化にふさわしい「この世的な対処」を取ることに特別な思いを持つ必要はないと思います。

では、どのように対処するの?
コース学習者らしい対処ってどんなことなんだろう?
というところですよね。

コースの学びでは、心の持つ力についての思考を変えて行きます。
それぞれ個人の胸や頭脳と言われている場所を指した「心」ではなく、この世界を映し出している「一つの心」についてです。

その認識に戻ることで、本当に実在するものは何か。
そして、実在しないもの(捏造されたもの)は何か。
という区別を学んでいきます。

それが赦しの実践です。

取り消しが必要なのは、ただあなたの心の中においてのみである。
(T-6.V.C.2:5)

奇跡に難しさの序列はない。一つの奇跡がもう一つの奇跡よりも「難しい」とか「大きい」ということはない。すべての奇跡は同じである。
(T1-I-1:1~3)

自我の思考で見ている、独自で作り上げた世界では様々な形象がありますが、その自我の投影として現れたNew Face「コロナさん」を特別にしないこと。

奇跡に難しさの序列はありませんから、「コロナさん」も「Aさんとの対人関係」も「予定通りにいかないこと」「ちょっと気になった『常識』といわれるもの」や「過去の後悔」についても、あらゆるものを普遍的に序列なく赦していきます。

実在するものは何かを「私はぜひとも真に見たい」と、意欲を持つことです。

この「私はぜひとも真に見たい」は、今までコースを学んできた皆さんにとっては、お馴染みで、何の目新しさもありませんね。
だって、コロナさんを特別にしないなら、特別な赦し方など必要ありませんから。

もし、コロナさんが及ぼしている影響を、生々しく感じているのなら、そこにどんな思いや考えが潜んでいるのかを観察して、赦していくしかありません。

いつも通り、今までと同じように
「これを見ているのは、私の心が自我の思考体系を受けれ入れたからだ」
「でも、私はこの思考体系とは違う、別の思考体系を受け入れたい」
「私は、ぜひとも真に見たい」
と、赦しのステップを淡々と行うだけです。

そして、赦しをしてから、この世界の中で、「この世界についてのやるべきこと」をしていくだけです。
同じように行動したとしても、赦さず行動するのと、赦して行動するのとでは、全く知覚が違います。
「形と内容」という言葉がテキストにも書かれていますが、行動をするときに大事なのは、「形」ではなく「内容」つまり「原因」なんですよね。

何と言っても、この世界をどのように映しているかの原因、つまり「心」についての学びなのですから。

と、ここまで書いておいてアレなんですが・・・。

実は、私は3月にトイレットペーパーが店頭からなくなったときに、集団心理というものがとても怖かったし、その集団心理を動かしている「コロナさん」という状況にも不安や恐怖を感じていました。

そうすると、あれやこれやと不安な気持ちをなだめるために、未来の予測をしたり、不安であいた(ように感じる)心の穴を埋めるような考えが浮かんできました。

もしあなたが自分の心に攻撃的な考えを抱いたり、何かを裁いたり、予測のつかない状況に対処するための計画を練ったりするなら、そのような心は病んでいるのだから、あなたは再び自分を間違った場所に置き、自らを肉体と同一視したのであり、それは、肉体を攻撃することになる。
(L136-19:2)

まさにこんな感じでした。

聖霊の思考体系と一致していないので、この世界に対して、「やるか、やられるか」のような攻撃的な思考軸で予想もつかない状況に対処しようとして_。

しかも、その思考は、攻撃が防衛として正当化される被害者としての立ち位置なんですよね。
まんまと自我の思考体系を受け入れちゃってました。笑

でもコースを学んでいるおかげで立ち止まることが出来て、

【ステップ1】
「今、私がこの状況から見て、感じている不安や恐怖は、私が自我の思考体系を受け入れたから見ているわけで、自分で作った「恐怖」なのだ。でも、もうこの考えはいりません。」
【ステップ2】
「私はこの恐怖よりも、別の思考体系(聖霊の思考体系)を受け入れて、神の平安を選びます。」
【ステップ3】
「私は、ぜひとも真に見たい」

と、赦しをしました。

そうすると、今度は、「コロナさん」に乗じて語られる「陰謀論」と、その陰謀論を仕掛けている「真実」についての話題が、私の耳に入ってくるのですが・・・。
これには、自分でも笑ってしまいました。

どっちにしても、この世で語られている「真実」には「被害者と加害者」が存在していますし、その両者が存在する以上、そこに真実はありませんよね。
そもそも、この世界に真実はないのだから。

まったく、さなさんったら・・・(^^;)

もう一度、「原因に戻り・手放して・入れ替える」という手順を丁寧に踏み、しっかりと赦しをしました。

それからは、落ち着いて過ごしています。
状況が望む通りになっていなくても、穏やかに過ごしています。

いつも通り「普通に」生活を過ごしながら、「私はぜひとも真に見たい」と、聖霊を思い出しています。
聖霊へ心を寄せて、真に実在するものだけを受け入れたい。そして、神の平安だけがあることを祈る日常を過ごしています。

もし、この一件で、何か『取らなければいけない行動』があるとしたら、それは「聖霊を思い出す」ことと「赦しの実践」を強化していくことかもしれませんね。

(・・・やっぱり、いつもと変わらない_。笑)

そして、今日も聖霊とともに。・*