明け方の夢

慰めと赦しと祈り

前記事で、「奇跡はとてもシンプル」と書いていますが、
だからと言って「簡単ではない」というのが「奇跡=赦し」の作業です。

“自分が傷つきやすく
弱いものだという感覚を持っている間は、
あなたは奇跡を行おうとすべきではない。”
(奇跡講座 T2-V-2:6)

とあります。
問題を生々しく感じている間は
無理に奇跡を行うのでなく
その問題が「幻想だ」と思えるまで
または、
一歩引いた見方ができる場所から
問題を眺められるようにすることが
「奇跡」の準備を整えることです。

そして、「安全」な場所から奇跡を行う。
つまり、赦します。

私たちは、自我を選んで、罪悪感に翻弄されていても、
ほんとうのところ「神の国」でしか生きていないのだけど、
そうとは思えないほどの生々しくて、おかしな夢を見ています。

(けれども、それは「夢」に過ぎないわけですが_。)

そんな中
「それでも私は愛されている。」
という時に、「一次的な慰め」なのか、
「神からくるものをはっきりと区別し選択する」では、
全く違ってきます。

例えば、自我の思考を持ったまま、
自分の特別な個性を持ったまま、

「それでも愛されているから大丈夫」とか、
テキストの言葉からホッとして安心するとか、
「あの人、もう大丈夫みたい。」とか
「そう思っていたのは私だけじゃなかったのね。」など

「自分で自分を咎めていたが、咎める必要はなかった」と、
気づいて安心した、というパターンはよくある思います。

これは慰めであり、「赦した」とはちょっと違います。

慰めのままで終わってしまうと
「自分が何を選択し見間違っていたのか」
「何にホッとして咎めなくなったのか」ということもすぐに忘れて、
また、気がつけば同じことで自分を咎め、他者に投影してしまいます。

コースのユニークなところは、
この気づきを「自分自身の中で正しい思考として確立すること」
を実践していくことです。
「気づき」は、始まりなのです。

この慰めにより、自分を咎める必要がないと
「安心できる場所に戻れた」ということですから、
そこから、
ではなぜ「咎める必要があったのだろうか」と、
内側を見つめていきます。

それは、結局「最初の問題」であり
「唯一の問題」と向きあっていくことになります。

心の訂正、真の赦しにとって、
「問題だと認識した間違い」を認めた自覚を持つことが
とても重要になってくると実感しています。

先日、web朗読会の中で、
Aさん(40代、男性)がシェアしてくださいました。
ご本人の了承を得てご紹介させていただきます。

。・*

「今日一日どれだけ感謝できるだろうか」
そう思えること自体が嬉しくて、
また感謝したくなって、
ああこういう状態は幸せと言っていいなと思う反面、
「それでも憂鬱な瞬間や不安な気持ちはある。
ちょっとした優越感や劣等感、妬み、怒りの感情、心が傷つく痛み、
なんとも言えないこの満たされなさ、
こういうのは一体なんなのだろうか…」
そう考えた時に、
こういうことの全てが、
神からくるもののはずがないではないか!!と
唐突に閃きの様に感じて、
その後、
突き上げて来る様な衝動に駆られて、
涙がポロポロとこぼれました。

以前、どこかの本で
『GOD is.  LOVE is.』
という言葉に出会ったことがあったんですが、
確かにそうだなと思います。
「神しかない。愛しかない。」
ほんとうを言えば、
きっとそういうことになるんだろうなと思います。

“ 神がどれほど多くをあなたに与えたか学ぶために、
限界なく、いつまでも与え続けなさい。
神を受け入れられる能力は、
神と同じ与え方で与えようとする意欲にかかっている。”
(T11-I-7:4~5)

改めて素晴らしい言葉だなと思います。

。・*

「神からくるもののはずがないではないか!!」
という言葉が、
そこでつながっていたメンバーそれぞれに届き、
ハッとさせられたように感じます。

この明瞭で圧倒的な魅力を感じる言葉を、
聖霊からのメッセージとしてそれぞれの胸で受取れたと感じました。

コースの学びの中に「赦しの3ステップ」というのがあります。
コースは「自己ヒーリング」を目的とした学びです。
自分で学び実践することを目的としているので、
実践しなくちゃ意味がないのです。
実践してると、コースのカリキュラムツールの中に、
こういったステップについてのことや、
葛藤の事例が多く述べられていて、
本来の自己へと導かれる励ましを感じますよね♪

実際、神以外のものを信じていたと気づき、
それは無かったと認識し癒されるのは一瞬です。

でも、自分が何をしているのか、
何を訂正し、何を受け取りたいと思っているのか、
という自覚と責任を持つことは、
心の選択の強化と聖霊への信頼の深化につながります。

そして、この一瞬のことでありながら、
強烈で鮮明なものなのですが、
しばらくすると、今までの思考の習慣に戻ってしまいます。
「神を否定する」という無意識の思考は、
そんなに素直ではないからです。

コースは、「赦し」の状態が、自然体となるまで続く学びです。

いつの間にか、私は「祈る」という習慣を持つようになりました。
祈りは、赦した後でも、赦しの最中でも、いつでもできます。
無意識の中でも起こっているとも言えますが、
意図した方が自覚を持ちやすいです。

私にとって祈りとは、
自分が自分に神の子であることの自覚を忘れないために、
教えて学ぶために行うものでもあります。
祭壇に捧げるような感じかもしれません。

祈りの歌の最初に
『祈りとは、神がわが子を創造したときに、
彼を祝福して授けた最大の贈り物である。』(s1-in-1)
と述べられていて、
このことを忘れないように過ごすことは、
神以外の想念はないという認識に欠かせないことだと思うのです。

その完全な全一性へ感謝と祝福を贈り、そして、その贈り物も、
自分に返ってくるというのも実感しています。
その贈り物を、真正面から受け取れるときと、
受け取れないときとでは、世界の見えようが全く違います。

祈りの言葉は、テキスト、ワークブック、マニュアルに
たくさん散りばめられていますし、
特にワークブックの毎日のレッスンは
そのまま祈りになるものばかりです。

Aさんは、日常の中で「どれだけ感謝できるのか」と取り組まれ、
意識されていました。
これも祈りの一つの形です。

祈りによって「求めて、与えて、受け取る」ことが起り、
感謝することは自分自身に感謝を与えること。

与えるとは、受け取ると同じ。

とはいっても、やはり抵抗を感じて、
また自我の見せる生々しい現象に翻弄されることもあります。
それでも、聖霊という慰め手であり導き手が、
いつも寄り添ってくれていると知ってしまった今は、
ゆっくりとでも着実に心の旅は進んでいると思います。

「神からのものであるはずがない!」という認識を忘れず、
神の愛の延長を生きている毎日を過ごしたいと、静かに胸に留めて_。

これを読んでくださる心の旅の仲間に、完璧な賞美と感謝を贈ります。





赦しの3ステップを
ザクっと基礎確認

ステップ1 
「問題はあなた(他者)にあるのではなく、自分の中にあると認める」 

これを見ているのは、私だ。私が見たいように見ている世界だと認めて立ち止まる。「戦場を超えたところ」つまり決断の主体へ戻ります。ここの踏ん張りは、なかなかタフな作業だと思います。だからこそ、聖霊に助けを求めて導いてもらいます。なんとトンチンカンなことをしているのだろう!と気づくまでは、いろいろな抵抗や葛藤を感じます。

ステップ2
「この罪悪感それ自体も、
かつて自分自身が下した一つの決断の現れであると認めたうえで、 
これを私は望まないと決断する。」

「決断の主体」に戻ったので、自我の思考体系か聖霊の思考体系かを選びます。この「決断の主体」に戻ったとき、問題だと思っていたことは、この選択をし直すことが必要だから見ていた現象だったと理解します。聖霊を「愛の存在」として認識することで、自分の「誤り」を「罪」ではないと、正しい思考体系を選択し直すことが抵抗なく行えるようになります。「あなた」や「私」という問題ではなく、「一つの心の中の問題」だということもわかってきます。

 ステップ3 
「聖霊にその自我の思考体系の誤りを預け、
聖霊がその間違いを取り去ることで達成される。」

ステップ2のことを聖霊に預ければ、それ以上することはありません。なぜなら、罪悪感を作り出したのは私たちなのだから、それを取り消すことができるのは私たち自身ではないのです。自我の外側からくる助けが必要となりますし、それは「聖霊」です。聖霊は、ただ罪悪感を取り去るだけです。(実際には、すでにそれ を取り去っているので)それを私たちが「受け入れるかどうか」という点だけになります。 受け取る準備が整えば、それは直ちに与えられます。