明け方の夢

パッションはどこに?

夏頃だったでしょうか、数人の友人のタロットカードのモニターをお受けする機会があありました。

「何か質問はありますか?」という問いをもらう時、わたしには定番の「問い」がありました。

さほど深刻ではない「自分への問い」

だけど、いつも浮かんで来る「問い」

それは「パッションはどこに?」

おそらく数年間、ふと思い浮かべ、答えを知らないまま追求もせず過ごしてきたのですが、わたしは、自分の内から溢れ出る「パッション」をもう何年も感じていないのです。

「わたしは何をすればいいのだろう?」そんな風に考えることもありましたが

「自分の内側を見つめていくと湧き上がってくる想いに気づくよ。その湧き上がってきた想いを素直に表現すればいいんだよ。」

そんな言葉を耳にしては

「どれどれ?」と、内側を探し

___________見当たらない。

___________湧き上がらん。

といった状況を繰り返していました。

やる気がないわけではありません。

「情熱を持って意気込む」とか「使命感に燃える」こともなく、何かを追いかける事をしなくなった時から「来るものを受け取ってみる」「何を見させてもらうのでしょうか」と、まじまじと贈られてきた物を吟味し、目の前の取組みの中で赦しをし、目の前の相手を奇跡のパートナーとして聖霊に頼って過ごしています。

なので、パッションについても
「あっても、なくても、いいんじゃない。」として来たわけです。

とはいえ、問われると思い浮かぶ、お決まりの「疑問」。

「パッションはどこにあるのだろうか?」

ある友人とのタロットモニター中のやりとりで、この「質問」を思い出したので「パッションが見当たらないんだよね」なんて話していくと、とうとうこの問題が解決し答えを受け取りました。

パッションはどこに________。

それは、ちょっと力が抜けるような気づきでした。

パッションはどこに_______。
というよりも、わたしがパッションの中にいたのです。

パッションが、わたしの中に「ある」のでもなく、わたしがパッションの中に「いた」のです。

空気の中にいるのに空気を探して「空気ってどこにあるの?」と言っているような、メガネをかけながら「メガネが見当たらないんだよね」と言っているような。。。

何だか滑稽な話ですが、なるほどと納得し、じわじわと感激しています。
わたしが探していたパッションは、もうすでに「内」であり「外」であり、この「世界」にあったのですから。

“ 聖霊は奇跡志向の心の状態のための動機づけであり、奇跡志向の心の状態とは、分離を手放すことによって分離を癒すという決断である。”
(奇跡講座 T5-II-1:4)

わたしの内にあるそれは「愛し合って生きたい」「愛を分かち合っていきたい」という意思を持っていました。
_____そういえば、何度もそんなことを言ってましたよね。今年のはじめにも言っていました。

「そうしたい」と言っているうちは、どこかで「できていない」という不足を感じていて、「まだ足りない」と自分を責めていたのだということにも気付きました。

時折、熱く語る人を見ます。
わたしも、そうしていた時がありました。
熱く語るその情熱的な姿からは、何か訴え出る想いががあって、一生懸命で、一途な決意のようなものを感じます。ですが、同時に「怒り」「悲しみ」「虚しさ」のようなものも抱えているように感じ取ることがあります。
きっと、わたしが、そうだったのでしょう。

なので、なおさら奮い立つような情熱的な姿勢に対して疑いを感じるのです。

「自我の声は大きい」そして「聖霊は静かに囁く」。
そんなフレーズを当てはめたくなるほどに。

心のパワーを感じますね。そうやって世界をクリエイトしてるのかと、つくづくこの世界で見るものに責任を感じます。
神様の遊びでも、試練でも、お試しでも、誰かの陰謀でも、何でもなく「わたしの内側」の反映であるという、コースが語るこの理論は、ほんとうに容赦がありません。

今となっては、どの想いの先にも「愛」しかありませんので、熱く語る人も、奮い立っている人も、その姿は尊いと受け取っています。

結果ではなく「動機」が大切なのですよね。どの動機も「愛を求めている」からこそのもの。
その方法が、一時的にやや遠回りに見えるだけのことなのかもしれませんし、やや遠回りに見えたとしても、それが必要な道のりだったという時もありますから、「できている/できていない」という結果にこだわっていると、その辺りが窮屈です。
奇跡は聖霊の仕事ですから、私たちは「聖霊を選ぶ意思」を持つことだけを求められています。

なかなか奇跡が起こらないように思えるときも、奇跡を見たいと祈りつつも自分の正義を証明したいと想いを握りしめていたとしても、自分のことを完全無欠の神の子だと信じられずにいたとしても、少々遠回りに見えたとしても、「どうにかしたい」「聖霊とつながりたい」と祈り続けている「動機」がそこにあるのだから、それはほんとうに美しく尊いと受け取っています。

そして、ある時立ち止まって見渡せばその中で生きていたと知るのです。
奇跡って、ほんとうに気が抜けるほど「そこにある」ものですね。
この脱力感は、自分を捕らえていた何らかの概念から解放され、その概念は幻だったと気づき心の自由を思い出した感覚でしょうか。
さらに、その感覚が「目覚め」への道標となることは間違えようがないと思います。

わたしも、自分がその中にいたことを受け取ると、次々と「愛の延長」が見えてきました。

何気ない日常の中でずっとそれは起こっていたことを、あらゆる角度で見せてもらいます。
思いもよらないところで、思いもよらない人に癒しが起こっていて、もちろん、わたしの周りの奇跡のパートナー達にも、各々が奇跡を受け取っていて、その広がりに共に喜び、目を潤ませ、分かち合い、また感激する。
もぅ、祝福が絶えません。

その延長は、これからも途切れることがないと確信しています。
祝福が絶えない日常となっていることが、幸せでたまらず、宇宙の果てに向かってビブラートを響かせて叫びたくなるほどです。
「愛を分かち合うこと」だけをしたかった。という想いが習慣となっていることに気づく。
これもまた尊いと、自分への祝福も怠りません。

それともう一つ、わたしは「パッション」を特別なものだと位置付けていたようです。
「自分だけの特別な使命」「~ねばならないと奮い立つ」そう言ったものを「パッション」と呼ぶのかと勘違いしてました。
燃え尽きないように「薪」をくべ続けなくてはならないものでもなく、常に激しくちゃんと燃えているかどうか、定期的に確かめが必要なものでもなく、静かでそして途切れることのない「常にあるもの(永遠なるもの)」のことをパッションと呼び、そこにパッションがあるのですね。
わたしが探しても「ない」と思っていたパッションはこんな風に見つかったのでした。

私たちは「自分とは何者か」という疑問を問い続けています。
その答えも、実は知っています。思い出せないだけで___。

パッションはどこにあるのだろうか?その答えは
「常にあるもの」で、常にありすぎて気づけないだけだった。
ザワザワと自分の声がうるさくて、聖霊の導きに気づけなかっただけだった。
「もっと何か」「もっと何か」と足りなさを責めている間は気づけなかっただけだった。

今、私たちは、問えばすぐにその答えへと導いてくれる存在に導かれています。

聖霊、イエス兄さんは、その事をずっと伝えてくれていました。
それに気づくタイミングを忍耐強く諦めず愛の中で待ってくれています。
いつも、いつも。

これからも、聖霊の導いてもらいながら、この愛の中で生きていきます。
そこでしか、私たちは生きていません。
そして、これをお読みくださったあなたとも。

「愛し合って生きたい」
ではなく
「愛の中で生きています」
これからは、そう言いますね。

最後までお読みくださり、ありがとうございます。
祝福と感謝を込めて。・*。・

“神の国においては、あなたがどこにいて、何であるかは、完全に確かである。疑いというものはない。なぜなら、最初の質問が問われたことがないからである。確定的に完全に答えられているので、その質問は一度も存在したことがない。ただ、実存だけが神の国に住んでおり、そこでは、一切が疑問の余地なく神の中に生きている。”
(奇跡講座 T6-IV-7:1~4)