私と肉体のレッスン

4.魔術は常に弱めようとする。

私が、免疫抑制剤を使っていたというのは以前のエッセイで何度も書いていますが、この抑制剤というのは、免疫だけでなくいろんな意味(意欲、判断力や思考力など)で抑制されていたのではないかと思うのです。(←いち使用者のレヴューとしての意見であり、これもまた、「免疫抑制剤」を投影先にしてにして責任転嫁しているだけのことですが。)

この世の対処法の全てをコースの中では「魔術」と表現されていますが、魔術に依存しているうちは「自分は弱きもの」という信念があります。だからこそ、その頼れる魔術が必要で手放せなくなり、そこには「特別な関係」が成り立っています。

ですから、免疫抑制剤が、その判断力を鈍らして「自分が病人であるという信念」を手放せなくしたのでなく、心の力を思い出すことを放棄したから、免疫抑制剤が手放せない状態を知覚し、私個人のアイデンティティーである「病人としての私」が保たれていたのです。

神の救済プロジェクトは、この個人としてのアイデンティティーを手放し、本来のアイデンティティーを思い出すプロジェクトです。

免疫抑制剤を手放しても、それに変わる「何か」を持ってしまうなら、そのプロジェクトは達成されません。

T10-III-10:4~5
あなたが自分の神々にどれほど耳を傾けているか、そして、その神々を守るためにどれほど警戒しているかを、自覚していない。だが、その神々はただあなたに崇められることで存在している。

T16-V-13:1
特別な関係とは、神の前に他の神々を祭り上げて崇めることによって、その神々の矮小{わいしょう}さと神の偉大さを追い隠そうとする無意味な試みであり、そのような関係の中に、それ以上のものを見てはならない。

もちろん、魔術は、苦しみ、痛み、恐怖などが強くて奇跡ができる状態ではないときは、とても役立ちますし、使ったほうが良いと思いますが、それは一次的なものであって、継続して使うことの代償は、「これがないと…」と不足や不完全さを強化し、心を思い出すこと、贖罪の意味から逆に進むみます。今後もこのことには気をつけたいと思いました。

今はこの通り「真に知覚したい」という意欲を持って、「病気は虚偽であるならば、どの様に知覚できるだろう」と聖霊を選びながら過ごしています。

今までが、いかに盲目だったか、間違った思考と信念を疑いもせず持っていたのか、自分自身の狂気具合にも気づきいてきました。

それはもう呆れるほどに……笑うしかない。いや、笑うしかできない。
私は、考えることも、生きることも、何もしていなかったのですから。
何もしないことに力を注ぎ、その罪悪感をこの肉体に投影していたのですから。

T2-VIII-5:4
恐れの中に生きる者は誰も本当に生きてはいない。

T5-V-6:12
なぜなら、神と同じように考えていないとき、あなたは本当はまったく考えていないからである。

そして、神の意志以外は実在しないので、私の「間違った力の使い方」は、ただの狂った夢なのです。それを「夢だった」としっかりと見ることが赦しのプロセスでは大切なことだと言われています。

私たちは、どちらか一方の思考を選んでいて「どちらも選ばない」ということはできません。
「違う見方、他の考えはないのだろうか?」という、わずかな瞬間に思い浮かぶ問いかけも、心が開き聖霊を思い出せるということは、わずかにでも「どうせ」「仕方ない」という諦めを感じているときは、心を閉ざして自我の思考体系を選んでいるということになると思います。

他にも、まだ気づいていないけど閉ざされた扉があると思います。
ゆっくりと胸の奥を眺めながら、聖霊の真実の光を扉の奥の隅々まで照らしてもらおう。
そこには何もないことを確認するために。

T11-V-1:2~3
幻想が危険なはずはないのだから、幻想からしり込みする必要はない。私たちには、自我の思考体系をもっと詳しく見る準備ができている。なぜなら、私たちが共に居れば、それを一掃できるランプがあるからである。そして、あなた自身も自分はそれを望まないと気づいているので、準備ができているはずである。