明け方の夢

向こう側はいつも正しい

週末に出かけた琵琶湖のほとりで、木に寄りかけてある枝の様が、ちょっと不自然なような、ちょっとお茶目な感じで私の感性に触れ、きっと誰かの発想でそのようになっていたのかなのかと思うのですが、そうやって誰かのアイデアに感性を刺激される時、その人と繋がれたような嬉しさを感じます。

その日、パッと開いたテキストに書かれていた箇所

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あなたが聖霊に返すべき感謝を、聖霊は代わりにあなたが受け取るよう求めているにすぎない。そしてあなたが優しい慈悲深さをもって兄弟を眺めるとき、あなたは聖霊を見ているのである。なぜなら、あなたは聖霊が居るところを見ており、聖霊から離れてはいないからである。
(奇跡講座T19-IV-3:1~3)
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誰かと繋がれた喜びを、ただ、嬉しい。と、そこで終わってもいいけれど、せっかくなので静かに染み込むように感じてみました。
そうして、湧き上がってくる幸福な感覚を、誰に向けるでもなく、ただ、ありがとう。と、「返すべき感謝を」受け取ってみます。

すると、さらに静かに喜びが広がって、不自然にお茶目に添えられた枝からも、その向こう側の柔らかな光のようなものを感じます。

さて、私たちは、日常の中で物心がついた頃から、それぞれに価値や意味を付けてきました。
そういった「思い入れの大小」により偶像をたくさん作って過ごしていることもありますよね。
偶像化しただけで、本来はそれ自体に意味がありませんし、自分やたくさんの人が一致させ決めた価値を勝手に崇めているだけです。

その偶像の向こう側にも真実は当たり前にありますから、その真実を忘れないためのシンボルというモノなのでしょう。
なので、偶像そのものを尊ぶことに意味を持っても、持たなくても、どちらでもいいように思います。
大切なのは、偶像の向こう側には尊ぶモノがあるということですから。
それは、兄弟の向こう側に神が在るのと同じように、偶像の向こう側にも神は在るということで、やはり全ては等しいのだなぁ。と。

冒頭に出てくる枝も、祀ってある神仏のそれぞれも…

その向こう側には、等しく神が在る。

なぜなら、実在しないものは存在しないから。
言い換えるなら、実在だけが在るということ。

とってもシンプルです。

とは言っても、私たちはいつでも、序列を作ったり価値をつけて、それに基づいて「ジャッジ」しています。
まぁ、それは仕方ないことですから、そのことを咎めるのはやめましょう。
でも、自分の判断ほど不安定なモノはありません。
「わたしとは、そういう者だ」ということを知っておくだけで、いいのではないかと思います。

必要以上に頑なに死守して、こねくり回す手間暇は要りませんよね。
それに気づく時はいつだって、ほんとうに浅はかで馬鹿げていて、労力を浪費していると感じるものです。

何かを見て「いいなー」「嬉しいなー」「なんか変やなー」と、感性に刺激を受けたら、「もう一度見直してみる」「正しく見直す」ことをコミットしてくだけですよね。
ただその習慣だけが、聖なる瞬間の連続に繋がって行くのではないでしょうか。

もう一箇所テキストから

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天国がその上に微笑みかけ、その愛の微笑みの中で、罪への信念は根絶された。あなたにはまだ罪は見えているが、それはあなたがその土台がなくなっていることに気づいていないからである。その源は取り除かれているので、それを大切にしていられるのは、消滅するまでのわずかな間だけである。それを探す習慣だけが依然として残っている。
(奇跡講座T19-III-8:5-8)
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ということで、根絶された罪への信念が取り除かれているのに、どこかに(まだ)あるはずだ。と、探しまわる習慣から、根本的な目線と選択、聖霊の目線から見直す習慣を引き続き実践して過ごしていきましょう。

言葉で表すとシンプルですが、信念の習慣を変えるのは、なかなか一筋縄ではいかないこともあります。
でも、その奥深さが面白いのですよね。
そこが鍛錬と言われるところです。

一人では、めげてしまいそうになる時も仲間がいるとモチベーションが保たれたり、励まされたりします。
繋がるというのは、あらゆる意味でありがたいと、しみじみ想う6月の空の下から。

いつもありがとうござます。