明け方の夢

奇跡を安全に行うことと魔術について

ACIMを学んでいる方々の中で、時々「魔術」というものに過敏に反応する方がいます。(過去の私ですが)
魔術は奇跡ではありませんが、実は、奇跡を安全に行うために役立つこともあるのです。
しかし、その区別をしっかりと持つことは、とても大切なことだと思います。

ではまず、奇跡を安全に行うとは、どのようなことを言うのでしょうか。

その問題(自分にとっての赦しのテーマとなること)で感じる「恐れ/抵抗/罪悪感」が強いときに奇跡を行う場合、その動機の中には、状況の変化を望んでいたり、自分が傷つきやすく弱いもの(被害者、犠牲者)という認識を持ったままでいることになります。
この状態が強い場合、状況の変化の方を望んでしまいがちになり、「一つの心」であるという認識と「問題の原因の識別」について強い葛藤を生じやすく、聖霊への恐れが強まり奇跡を安全に行うことは難しくなります。

奇跡を安全に行うための動機というのは、聖霊と目的を共通にして「分離は起こっていない」ことをゴールとします。

そして、奇跡とは「問題の原因の識別」を自分が「一つの心であり知覚している主体であり、決断の主体である」という認識の中で、「自我(分離を信じている狂気の)思考体系」なのか、「聖霊(分離はないと知っている正気の)思考体系」なのかのどちらかをもう一度選び直す(聖霊に心を寄せる)ことを言います。
その時、「個」という肉体としてこの世界に生きる存在という認識から、「一つの心」としてこの世界を知覚している主体であると認識を変化させることが必要になります。
この認識へと、その葛藤をくぐり抜けることができたとき、奇跡は安全に行えると感じています。

心の訓練とは、このように自分が何者であるのかを思い出す訓練でもあると思うのですが、一筋縄ではいかないことも多いと思います。

もし、あなたの近くに「聖霊を選ぶことに抵抗は感じません。赦しは、聖霊に委ねるだけだから」と、言っている人がいたら、即刻その人のそばから離れてください。その人の「赦し」は、ACIMが教えている「赦し」ではないかも知れません。笑

というのも、心の訓練において、抵抗はあって当たり前だからです。
なにしろ「赦し」というのは「自分の間違った考え」を受け入れるわけですから、真の平安を感じたいと望んでいたとしても、自分の考えや経験していること(特に、自分の尊厳に関わること)を「無」とすることは恐れや抵抗を感じます。
その本来は見たくない内側のことを、認めずにいられるならばそうしておきたいことをわざわざ直視していくことをやっているのですから、ルンルン気分でできるものではないと思います。

自分の見ている世界を、自分の間違った考えによって見ている世界だと認めるのは、とても根気のいることですし、「奇跡に大きい小さいもない。奇跡に序列はない」と言われていても、肉体として生きている私たちにとって「序列」は・・・やはり感じてしまいます。
見ている問題の「序列」を感じている私たちにとっては、「全てが等しく同じように」というわけには思えないこともあります。(そこを目指しているのですけど…。)

心の訓練で、抵抗を感じない人は「ACIMの教えを理解していない学んで間もない人か、ACIMを自分サイズに希釈(歪曲)させている人」と、聞いたことがあります。もちろん、抵抗を感じてもうまく対処できる人もいるかも知れませんが、それにはやはり知的な理解の助けが必要となってくるでしょうし、そうであっても全く抵抗を感じないという人は、いないのではないでしょうか。
(すぐに「世界は無いんだから。神の愛だけだから。」と自我を直視しない人のことは論外です)

そして、その抵抗を「咎めず、闘わず、深刻にならず」に静かに眺め、聖霊のために心の空白を保つことが必要とされますが、そこが自我への信念を持ってしまっている時の私たちにとって、グッと忍耐が必要とされることなのですよね。
そのことが、自分の意欲でできる時もありますが、できない時もあるのではないでしょうか。

そのような恐れや抵抗を大きく感じているとき「魔術」と言われている対処法を正しく使うことは、とても役に立つものだと感じています。
ここで私が「魔術」と言っているのは、魔法使いが使う「魔法」のことではありません。(使えたら楽しいでしょうね。残念ながら使えません・・・。)

では、魔術とはどのようなものなのでしょうか。

例えば、傷口に貼る「傷パット」とか、頭痛薬だったり、または手術という、肉体への対処法
例えば、カウンセリングや、エネルギーヒーリングなどの目に見えないけど知覚できるものへの対処法
例えば、お金や環境などの物質的な対処法

この世界の中で問題にアプローチして問題を緩和させることができる、この世界の中での対処法のことです。
ただし、奇跡/赦しとのレベルの区別が求められます。「ひとつの心」と領域の違うものだという認識を持って使うことが、大、大、大、大前提!!になります。

赦しは、どの問題に対しても同じことがなされ、その原因の根本的な癒しのために常に二者択一の選択が心のレベルでなされるものです。一方、魔術は、各々の問題に対して多種多様の対処法があり苦痛が一時的(その時間の短長はその問題によります)に緩和される、肉体(幻想世界)のレベルのものです。

一時的に楽になってもその問題についての信念は根本的な癒しではありませんし、恐れの中で奇跡を行おう(聖霊を選ぼう)とすることは「問題は実在する」という信念を強化し自我へ向けて注力していることにもなりかねません。その対処法を「奇跡」と混同して、魔術に頼り、そればかりを用い続けることは、安楽と苦痛を行き来する幻想世界の「泥沼」にハマってしまうこともありうる、ちょっとゾッとすることなのです。

そして、恐れや抵抗は、自分が肉体であるという幻想世界での問題を実在してるという信念が強い(自分の方が正しい)からこそ引き起こされるものなので、自我への強い信念__恐れ/抵抗/罪悪感__がある時は、自分が肉体では無いということも考えられないし「選び直したいけど、それができない」という強い葛藤が生じて奇跡が安全に行えません。

ですので、奇跡と魔術の違いをしっかりと区別した上で魔術という対処法を使って、(一時的にでも)楽になることで、それから赦しの本題である「問題の原因の識別」し、自我への信念_分離を信じている考え、自らを傷つけることができという考え_を聖霊とともに見つめていき、「ひとつの心」としてもう一度選び直すことを安心して行えるよう魔術を正しく使うならば、奇跡を安全に行うために役立つものと思うのです。

私は最近、恐れが強いと感じる方や、なかな手放せない問題を抱えている方からの要望を頂き、ヒーリングや個人セッションをさせていただく機会が増えました。私は、これも奇跡を安全に行うための魔術の「ひとつの形」だと思っています。なぜなら、「奇跡/赦し」は、問題を見ている私たちの内側で決断し為されることだからです。
その心の訓練の、ひと時を共通の目的を持って連れ立って進んでいく機会を得たその中で、私が留意していることは、形としては「それぞれの立場がある関係」ではあるけれど、お互いが、神の救済計画において持ち場についている状況だと捉え、「ひとつの心」として、それを知覚している主体として、私自身も「ひとつの心」としての選択を忘れないようにすることだと思っています。

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